高橋誠一さんについて

高橋誠一さんについて

『高橋誠一とでくのぼうのなかまたち』 ―私たちの想い・・・

高橋誠一さん

私たちの”こけし仲間”―岩手県、陸前高田市にお住まいだった高橋誠一さん。
この支援活動は、高橋誠一さんの安否情報を求める中から生まれました。

高橋さんとの会話は、3月9日の夜に入れた地震見舞いの電話が最後になりました。
3月11日の地震、津波。
陸前高田の第一報のテレビ映像で、彼の家が無くなったのがわかりました。
12日より安否情報を求めましたが見つからず、行方不明者の届けを出そうとしましたが、関係部署は電話が殺到してつながりませんでした。
23日、やっと行方不明の届けを出す事ができましたが、同居していたご両親の名前を聞かれても答えられませんでした。
電話では、お互いに、「おかあさん」「おとうさん」と呼びあっていたからです。
4月6日に私たちの仲間が、高橋さんの死亡を確認しました。そしてそれは、翌日の新聞に載りました。
陸前高田市の海の近くの彼の家―
ご遺体は無理かと思いましたが、発見されご親族の方に引き取られたそうです。
しかし、それ以上の事はわかりません。

高橋さんと初めて会ったのは、1982年1月31日、東京都上井草の”おおき”というこけし屋さんでした。
私たちこけし仲間は、彼が東京で働いていた約10年の時間を、共有しました。
平成16年まで会員だった東京こけし友の会、横浜こけし会、民芸こけしの会で一緒に楽しみました。
彼の家に泊まった仲間、又仲間の家に彼が泊まったり、グループでこけしを求めて青森から横浜まで、数え上げたら切りがありません。

こけしの中でも、昨年亡くなりました井上ゆき子工人一家こけしが大好きで、井上ゆき子さんの個展を開くのが夢でした。
平成2年、井上ゆき子工人が内閣総理大臣賞を受賞し、そのお祝いの会での彼の嬉しそうな顔が、忘れられません。
塩川の井上家には60数回通い、井上ゆき子工人一家こけしについてなら、高橋さんに聞けばすぐわかりました。
陸前高田に戻られてからは、年に数回電話で近況を伝える程度でしたが、 ゆき子さんが2009年に怪我をされて入院されて以来、ゆき子さんの話題で頻繁に電話や手紙が交わされました。

津波にのまれて、高橋さんと一緒に旅立っていった”こけし”。
その一部の写真を、今回の支援活動会場の”ねぎし”に飾ります。
そして、高橋さんの慰霊のために、岩手県でのこけしの名称”でくのぼう”の仲間として、陸前高田市の子供たちに、こけし工人が作ったコマを、彼の名前でお贈りします。
なお、子供たちにお贈りするコマは、地震のために中止になった土湯こけし祭りの関係工人のご協力によって、5月5日のこどもの日に、手渡す準備をすすめています。
どうぞ、コマを送るためのチャリティーにご参加いただき、こけしを手にして、東北を応援する活動にご参加いただきたく思います。
微々たる力しかない私たちですが、被災された皆様の中に残された力にエールをお送りいたします。

誠一とでくのぼうのなかまたち

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